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東京地方裁判所 昭和46年(合わ)118号 判決

主文

被告人を懲役一年に処する。

この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、東京都中央区蠣殻町三丁目一〇番一四号所在互興株式会社に自動車運転手として勤務していたものであるが、

第一、昭和四六年三月一九日午後五時三〇分ごろから午後九時ごろまでの間、地下鉄人形町駅付近の飲食店「文福」で飲酒した後、帰宅のため同日午後九時すぎごろ、地下鉄日比谷線築地駅で下車したが、同駅築地公園口より新大橋通りの西側歩道上を八丁堀方向に向つて通行中、折柄、反対方向から小山文子(当五〇年)が歩いてくるのを認め、酔つた勢いから同女に抱きつくなどしてからかつてやろうという気持になり、同区築地二丁目一二番八号喜津弥ビル前付近歩道上において、同女のうしろから肩越しに襟をつかんで首のあたりをしめつけ、横に倒れた同女の襟の辺を押えつける等の暴行を加え、よつて同女に対し、安静加療約四日間を要する両膝部、及び右手第一指の擦過傷、頸部圧迫傷の傷害を負わせ、

第二、前記犯行の直後、右小山文子が前記のように倒れた際、思わず路上にとり落した同女所有のハンドバッグ一個(ケース入り印鑑一個、くし一本、化粧品一式、ヘヤーネット一枚、伝票入り封筒二枚在中、時価合計一三、七〇〇円)相当をその場から持ち逃げしてこれを窃取したものである。

(証拠の標目)〈略〉

(法令の適用)

被告人の判示所為中、第一の傷害の点は刑法第二〇四条、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号に、第二の窃盗の点は刑法第二三五条に各該当するので、第一の罪について所定刑中懲役刑を選択し、以上は同法第四五条前段の併合罪なので、同法第四七条本文、第一〇条により犯情の重い判示第一の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処し、情状により同法第二五条第一項を適用してこの裁判の確定した日から三年間右の刑の執行を猶予することとし訴訟費用については刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用してその全部を被告人に負担させることとする。

(検察官および弁護人の主張に対する判断)

一、検察官の主張によれば、被告人は判示の日時場所において、小山文子(当五〇年)に対し、同女の首を両手で絞めながら仰向けに倒して押えつけるなどの暴行を加えてその反抗を抑圧し、同女から同女所有のハンドバッグほか五点(時価一三、七〇〇円相当)を強取したが、その際、右暴行により同女に対し、判示の如き傷害を負わせたものであつて、本件は強盗致傷罪に問擬されるべきであるというのである。そこで被告人が右暴行を加えるにあたり、財物強取の意思を有し、その目的を遂げる手段として判示暴行に及んだものかどうかを検討することとする。

前掲の関係各証拠によれば、被告人は判示のとおり、勤務先付近の飲食店「文福」で、同僚ほか一名の客を相手に平常の酒量を越えて十分満足する程度に清酒を飲み、帰宅のためいつものとおり地下鉄日比谷線人形町駅で電車に乗車し、同築地駅で下車したものの、酔ざましに風に吹かれて散歩でもして帰ろうと思い、帰路としては遠回りになるが、以前勤めたことのあるオリオンSP社の付近を回つて帰るつもりで、新大橋通りの西側歩道を車道寄りに北方の八丁堀方向に向つて歩いて本件現場にさしかかつたものであること、被告人は日常自宅外で飲酒することは週に一、二回程度であり、しかも、つねに前記「文福」を利用し、他の店で飲酒することはほとんどなく、犯行当夜もさらに他の店に行く意思はなかつたこと、被告人の家庭は、妻きみ子と共稼ぎで月収一〇〇、〇〇〇円余の収入があり、持家の敷地買入れの資金として借入れた金員を毎月二〇、〇〇〇円ずつ返済しているほかは格別の出費はなく、被告人は小遣として毎月一三、〇〇〇円程度でほぼ不足ない生活をしており、本件犯行当時残金五五〇円を所持していた等の事実が認められる。

以上の事実に徴すれば、本件犯行当時、被告人が差迫つて金員を必要とする事情はなく、当夜さらに飲食を重ねるため小遣銭が欲しかつたとも認められず、その他被告人が小山文子を認める以前、他人から金品を強取する意思のあつたことをうかがわせるに足りる証拠は全く存しない。また被告人が、小山文子を認めるや、にわかに財物強取の意思を生じたと解するのもまことに不自然といわねばならない。かえつて被告人の当公判廷における供述によれば、被告人は、酒の勢いもあつて、同女に抱きついてからかつてやるつもりであつたというのであり、被告人の検察官に対する昭和四六年三月二四日付供述調書にも「その女の人のおつぱいにオーバーの上から触つてみたいと思いました」「私は右手で相手を押えながら左手で相手のオーバーの上から乳のところを押えるように触りました」との各記載があること、被害者である同女の供述記載(第一回公判調書)によるも、「物盗りなら欲しいものをあげればいいんですが、無言で首をしめるだけなので本当にこわかつた」「ハンドバッグが飛んでからもしばらく首をしめていた。間髪を入れず(拾つて逃げた)というほどでもなかつた」というのが同女の率直な体験であつたと認められるのみならず、被告人が前記暴行に際し、同女に対し、金品を要求する趣旨の発言をし、あるいは金品を奪取するような態度を示したことを推認するに足りる証拠が全く存在しないこと、被告人がハンドバッグを持去つた後、直ちに在中の金品をたしかめることもせず、一旦、付近の上松とよ方植込に右ハンドバッグを置いたものの、再びこれを取り上げ、犯行現場からわずか徒歩で二、三分の歩道に面し人目につきやすい関東燃料株式会社ビル玄関の石段に腰を下ろしていたところ、警察官に発見された事実等、本件犯行の態様、本件犯行後の一連の行動を総合して考察するときは、当初よりハンドバッグを強取する意思のあつた者の行動としては、一貫性もなく、またきわめて不合理、不自然な行動と解するほかはない。

結局、被告人が、酒に酔つた勢いで小山文子をからかうため、同女の身体に手を触れたところ、同女の態勢が崩れたこともあつて、力が入り、判示の暴行に及んだものであり、その際、同女がはずみで振落したハンドバッグを、咄嗟の出来心から持去つたものと解するのが相当である。なお、被告人が被害者に対し、判示のような所為に出た本来の意図が、同女のオーバーの上から手で乳部に触れるにあつたとしても、本件の場合、被告人に、刑法第一七六条にいわゆるわいせつ行為の犯意があつたと解するのは相当でない。

二被告人の司法警察員に対する供述調書および検察官に対する昭和四六年三月二四日付供述調書には、被告人に強取の意思があつた趣旨の記載があるが、この点に関し、弁護人は右各供述調書は任意性がないと主張し、被告人は、取調べの際、一応否認したものの、捜査官の追及にあつて、止むなくこれを肯定するかのような供述をしたと弁解している。

よつて検討するに、被告人が本件暴行を行なつた事実、およびハンドバツグを持去つた事実は明瞭であり、ハンドバッグの奪取が、右暴行と接着した時間に敢行されたことにかんがみると、本件暴行が財物を奪取する手段として行なわれたかの観があり、取調べに当つた捜査官が、その間の事情を追及したのはもとより首肯できるところであり、他方、被告人が説明に窮したのも無理からぬことといわねばならない。

さらに、証人山根一夫、同熊川正一郎の各供述その他の関係証拠を仔細に検討すると、本件において、司法警察員、検察官が強制、拷問、脅迫その他これに類する手段を用いて取調べを行なつた事実はうかがわれず、また前記のような取調に対して、前記のような供述をしたからといつて、ただちに右供述の任意性に疑があるものとは解されない。けれども、被告人としては、理詰めの質問に対し説明に窮したため、あるいはそのことに因る心理的動揺から、深く考えもせず、捜査官に迎合し、真実に反する供述をしたものと認められる。よつて、右各供述調書の前記記載部分はたやすく信用することができない。

以上を要するに、本件公訴事実中、被告人に金品を強取する意思があつたとの点は、これを認めるに足りる証拠がなく、被告人は、判示認定のとおり傷害と窃盗の限度において責任を負うものと解するのが相当である。

三弁護人は、被告人にはハンドバッグについて、不法領得の意思がなかつた旨主張するけれども、本件犯行の態様、および犯行後被告人がハンドバッグを一旦返そうとしたが、結局持去つた事実、ハンドバッグから取り出した封筒を破つて開披し、在中物を確かめている事実等からすれば、被告人において不法領得の意思があつたものと解されるから弁護人の右主張は採用しない。

四弁護人は、被告人が、本件犯行当時、飲酒による病的酩酊のため心神喪失あるいは心神耗弱の状態にあつたと主張するので、この点について判断する。関係各証拠によれば、被告人は、本件犯行前、前記「文福」で日本酒を約七勺入りの銚子で約一四本くらい飲んだ事実が認められるけれども、他方、被告人が飲酒のため費した時間は相当長く、犯行後間もなく行なわれた検査においては、呼気一リットルにつき0.25ミリグラム以下のアルコールを身体に保有していたにすぎなかつたこと。犯行後すばやく逃走し、その経路や行動なども比較的明確に記憶していること、制服警察官を認めて約二一メートル疾走し、その逮捕を免れようとしたことなどの事実も明らであつて、被告人は、本件犯行時、自己の的確な思考と判断にもとづいて行動しており、それに対する価値評価も適宜なされているものと認められる。以上の事実を総合して判断すれば、被告人は、本件犯行当時、飲酒酩酊のため事理を弁別し、それに従つて行動する能力を欠き、あるいは右能力に減弱があつたものとはとうてい解されない。

従つて、弁護人の右主張は採用できない。

(量刑の事情)

本件犯行は、被告人の酔余軽卒な行動によるとはいえ、その罪質、態様にかんがみ、被告人の罪責は決して軽視することができない。しかし、幸いにも傷害の程度は比較的軽微であり、盗品も返還され、被告人が慰藉料、治療費を支払つて示談が成立し、被害感情も宥和していること、さらに、被告人には前科もなく、日常の生活ぶりや勤務態度も真面目であり、改悛の情も顕著であつて、再犯の可能性がほとんどないなど諸般の状況にかんがみ、被告人に対しては刑の執行を猶予するのが相当と考える。

よつて、主文のとおり判決する。

(岡村治信 田口祐三 田中康郎)

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